人事労務の現場で長年、企業の組織課題に向き合ってきた私が、今、特に注目しているのが「インシビリティ」という概念です。株式会社コーナーが実施した調査によれば、約8割ものビジネスパーソンが「感謝・労いの欠如」や「高圧的な物言い」を経験しているという衝撃的な結果が明らかになりました。
ハラスメントとは異なる「日常の無礼」
ハラスメント対策は、近年、企業の重要な法的義務として定着してきました。パワハラ防止法の施行により、多くの企業が研修を実施し、相談窓口を設置しています。しかし、インシビリティは、ハラスメントほど明確な規範に照らして処理できない、いわば「グレーゾーン」の問題です。
インシビリティとは、相互尊重という職場の規範に反しながらも、意図が明確でない低強度の逸脱行為を指します。具体的には、話を遮る、感謝を示さない、貢献を軽視する、意思決定から排除するといった行為です。これらは一見些細に見えるかもしれませんが、その影響は決して小さくありません。
エンゲージメントと離職に直結する深刻な影響
調査結果で特に注目すべきは、インシビリティがもたらす組織への影響です。インシビリティを受けた後、「提案」「協力」「挑戦」といった前向きな行動は大きく減少し、「仕事の満足度」「パフォーマンス」「組織への信頼」は25〜30%台で減退しています。
さらに深刻なのは、心理的ストレスと離職意向が顕著に増加している点です。『日本の人事部 人事白書2025』では、新卒採用において約8割の企業が「コミュニケーション能力」を重視していることが示されていますが、せっかく優秀な人材を採用しても、日常の無礼によって人材が流出してしまっては本末転倒です。
発生しやすい場面と背景
調査では、インシビリティが発生しやすい場面も明らかになっています。最も多いのは「対面での1on1や少人数での会議」、そして「直属の上司・上位管理職」との場面です。
発生要因として挙げられているのが、「価値観・コミュニケーションスタイルの違い」と「時間や人手に余裕がない」状況です。これは、多くの企業が直面している現実ではないでしょうか。人手不足が深刻化し、管理職も現場業務に追われる中で、コミュニケーションが粗雑になりがちです。
基本的なコミュニケーションの重要性:挨拶の3つの基本
インシビリティを防ぐために、私が企業の皆様に最も強調したいのは、基本的なコミュニケーションの徹底です。特に、職場における「挨拶の3つの基本」を忘れてはなりません。
①「こんにちは」(挨拶) 朝の「おはようございます」、日中の「お疲れ様です」など、基本的な挨拶は人間関係の入口です。忙しさを理由に挨拶を省略することが、無意識のうちにインシビリティの始まりとなります。
②「ありがとうございます」(感謝) 調査で約8割が経験している「感謝・労いの欠如」。この問題は、「ありがとう」という一言で防げるはずです。小さな協力や日常的な業務にこそ、感謝の言葉を伝えることが重要です。
③「ごめんなさい」(謝罪) 話を遮ってしまった時、約束を守れなかった時、素直に謝る姿勢が信頼関係を築きます。立場が上になるほど、この言葉を言いにくくなりがちですが、だからこそ管理職には特に意識してほしい言葉です。
これらは決して特別なスキルではありません。しかし、業務に追われる中で、つい忘れがちになる基本中の基本です。
職場で実践すること:可視化による啓発
基本的なコミュニケーションを職場に定着させるためには、継続的な啓発が不可欠です。私がお勧めしているのは、ポスターなど可視化した物の活用です。
会議室や休憩室、エレベーターホールなど、従業員の目に触れる場所に「挨拶の3つの基本」を掲示することで、日常的に意識を喚起できます。研修で一度伝えるだけでは、時間とともに記憶は薄れていきます。しかし、毎日目にするポスターは、無意識のうちに行動変容を促す効果があります。
また、ポスターには経営層や管理職からのメッセージを添えることで、「会社として本気で取り組んでいる」という姿勢を示すことができます。こうした可視化の取り組みは、組織文化を変えるための第一歩となります。
社会保険労務士として考える予防策
労務管理の専門家として、私はインシビリティへの対応を以下のように考えています。
まず、ハラスメント研修だけでは不十分です。インシビリティは「違法かどうか」ではなく、「相互尊重があるかどうか」という観点で捉える必要があります。管理職研修では、「感謝を伝える」「話を最後まで聞く」といった基本的なコミュニケーションの重要性を改めて確認すべきです。
次に、業務量の見直しです。「忙しさ」が無礼の温床になっているのであれば、それは組織設計の問題です。適切な人員配置と業務分担の見直しが必要でしょう。
さらに、心理的安全性の確保です。インシビリティを感じた従業員が、それを声に出せる環境を整えることが重要です。定期的な1on1や匿名アンケートの活用も有効です。
組織文化の変革を
インシビリティ対策は、単なる個人のマナー向上の問題ではありません。それは組織文化そのものを見直す機会です。「忙しいから仕方ない」「これくらい普通」という認識を変え、日常的な礼儀と尊重を当たり前の文化として根付かせることが、真のエンゲージメント向上と人材定着につながります。
約8割が経験しているという事実は、これが一部の問題ではなく、多くの職場に潜む構造的課題であることを示しています。法的対応が求められるハラスメントの前段階で、組織としてできることは数多くあります。「こんにちは」「ありがとうございます」「ごめんなさい」という3つの基本から始める。そして、それを可視化して組織全体で共有する。このシンプルな取り組みが、インシビリティのない健全な職場づくりの第一歩となるはずです。
参考 約8割が経験。ハラスメントでは測れない組織課題「インシビリティ」実態調査 | 株式会社コーナーのプレスリリース